山陰沖の歌の語り(49)

第6章、歌の変容

 第16節、南北朝合一

 長い動乱の末、ついに南朝北朝とは合一となる。足利義満の極めて高度な政治戦略によってである。南朝後亀山天皇は吉野を出て京に帰り、北朝後小松天皇に神器を渡した。明徳三年(1392)のことである。
 両朝合一の前年すなわち明徳二年、絶大な権力を持つ義満は、その自らの満足を北野天満宮境内において、連歌興業することで確認した。「北野法楽一日万句」の挙行である。義満は南北朝を統一し戦乱を終息させ、ここに北山文化を花開かせた。実質的に北朝の文化で、その象徴となった「北野万句」は、以後、定期的な歌の行事となる。やがて式目も整備され奉行職も置かれ、賑わいの歌舞・演劇と共に、いよいよ天下に持て囃されていく。一方、後醍醐天皇の系譜、南朝皇胤のその後は、果たして、いかなる運命をたどったのか。

    大覚寺統

  ①後醍醐 ─②後村上 ┬ ③長慶 ─ 尊聖(佐山宮)
               ├ ④後亀山 ─ 恒敦(小倉宮)─ 聖承王 ─ 教尊王
               └ 説成(護聖院宮) ─ 世明王 ┬ 通蔵王
                            └ 金蔵王 ┬ 自天王(北山宮)
                              └ 忠義王(河野宮)

 明徳三年、後亀山天皇の皇子恒敦は、天皇と共に京へ帰った。嵯峨の小倉山の麓に宮居し、それゆえ小倉宮と称する。以後の恒敦の家系を小倉宮という。
 応永十七年(1410)両党迭立の合意が破綻した。約束を反故にされ悲憤する後亀山は、吉野へと出奔した。
 正長元年(1428)後亀山の嫡孫・小倉宮聖承が、大覚寺統皇位を戻そうと、伊勢国司・北畠満雅の支援を受け挙兵した。だがまもなく敗れ、得度し入道聖承として東山に蟄居する。小倉の宮の嫡子・教尊王も、幼くして得度、山科の勧修寺に入り、蟄居修行となった。
 嘉吉三年(1443)小倉宮法親王聖承)が死去する。南朝の遺臣(あるいは皇胤)の源尊秀や、不平公卿の日野有光らが、南朝の兄弟王(通蔵主、金蔵主)を担ぎ、御所へと乱入した。これを金闕(きんけつ)の変という。彼らは神器(神鏡・神璽・宝剣)を奪い叡山へと拠った。だが北嶺の大衆は味方せず、支援を失った彼らは殺され、乱はまもなく鎮定されてしまった。当時、仏門に在った小倉宮尊王も、この金闕の変に連座する。幕兵により側近は殺され、教尊王も逮捕されてしまった。
 文安元年(1444)二十六才の若さで、彼は隠岐に流される。後醍醐の如き脱出も叶わず、やがて島にて死去してしまった。今、隠岐の島前・知夫里島に、この教尊王墓所という宝篋印塔が残されている。動乱の時代、その南朝隠岐に流された後醍醐から始まる。そして、やはり隠岐に流された教尊王で終了した。
 いや南朝後南朝)の歴史には、まだ後日談がある。金闕の乱で、叡山から撤退した残党は、なお神璽を守り、吉野の奥山深くに隠れ住む。この後南朝の行宮に、赤松氏の遺臣たちが、その復権(再興)を賭け、神璽を奪い返しに来た。そして南朝の後胤と称する自天王と忠義王の兄弟王を殺し、彼らの首と共に、神璽を京へ持ち帰った。これを長禄の変という。