山陰沖の歌の語り(53)

第6章、歌の変容

 第20節、俳諧の始まり

 近世に大流行する俳諧は、もともと「俳諧連歌」と称されたように、新興町人層の文化上昇の機運の中で支えられ、連歌から派生してきたものである。いや連歌そのものが、本来、諧謔を以て歌われた遊びだった。そのおどけ、たわむれこそ、そもそもの連歌俳諧の遊びであった。
 俳諧三神と称されるのは、山崎宗鑑荒木田守武、松永貞徳の三人であるが、これは和歌三神のもじりである。その筆頭たる宗鑑は、後鳥羽の祀られた水無瀬に近い山崎に庵住し、それゆえ山崎宗鑑と称した。宗祇と座を共にし連歌を詠み、宗祇の後鳥羽への傾倒など先刻承知だった。だが宗鑑は、少し年長の宗長と、その興味の赴く俳諧に腕を競っていた。
 宗鑑の編纂する「俳諧連歌抄」すなわち「新撰犬菟玖波集」は、犬と卑下するものの、先の勅撰連歌集「菟玖波集」の伝統に連なるもので、また宗祇による「新撰菟玖波集」を受け継ぐものであった。敷島の歌ならぬ筑波(つくば)歌の、本流中の本流である。そして「新増犬菟玖波集」編纂した松永貞徳が、その後に現れる。

 この貞徳の門下に北村季吟が出、季吟の門下に松尾芭蕉が現れる。貞徳は九条稙通(たねみち)や細川幽斎から和歌を学び、里村紹巴(じょうは)から連歌を学んでいた。だから孫弟子の芭蕉が、その胸の内に抱く風雅の理想像は、この伝統の和歌・連歌の美に連なるものであった。