山陰沖の歌の語り(54)

第6章、歌の変容

 第21節、蕉風俳諧

 近世に於ける商人の活躍は、ここに商人文化を見事に花開かせていく。騒ぎ歌をうたい、繁栄を喜びうたう中から、やがて彼らの美意識も研ぎ澄まされていく。そこに芭蕉が登場した。彼の「柴門の辞」を引用しておこう。弟子の許六が郷里へ帰る折、芭蕉が書き与えたもので、柴の門に佇み見送る体である。

  私の風雅は夏炉冬扇(夏に焚く炉や冬に煽ぐ扇)の如く無駄なもので、何の役にも   
  立ちはしない。ただ釈阿(藤原俊成)や西行法師の和歌だけは、かりそめに詠み捨て 
  られたようなものにも深いあわれが籠もっている。

  後鳥羽上皇の、お書きになったものの中に「この二人の歌には真実があって、しか
 も悲しみがただよっている」と仰せられたとか。なれば私たちも、この御言葉を力
 に、その細い一筋の道を辿り、その道を失うことのないようにしなければならない。

 

 芭蕉は後鳥羽の示した道を、ただ一筋に辿ろうとする。彼の風雅は後鳥羽の精神を受け継ぐものだと弟子の許六に語るのである。西行への深い傾倒から、おのずと後鳥羽の歌論へ思いが到ったものである。後鳥羽の西行観は「西行の歌は情趣ありおもしろい。殊に心遣いは行き届き、また深いもののあわれがある」というもので、そして「生得の歌人」すなわち天才で、凡人など、およそ真似できないものだという。西行は「新古今」最大の歌人の栄誉を、後鳥羽から受けた。彼は後鳥羽の歌論の体現者たる存在であった。なればこそ芭蕉が、己が人生の範としたのである。

      願わくば 花の下にて 春死なむ
         その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)の頃   西行

 芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのも、この西行の旧蹟を訪ねるためであった。芭蕉西行を追い求める、その細い一筋の道の果てには、後鳥羽の求め続けた歌の真髄がある。和歌、連歌の伝統の上に、俳諧の文化は形成されていったのである。だがその文化の基板をなし、実質を支えたのは、この近世に至り勃興してきた町人層の経済力である。芭蕉の漂泊の生活を支え、彼の句作を援けたのも、江戸や上方の町人の力だった。
 芭蕉以後、全国各地の名所旧跡を旅しながら、俳諧の道を究めようとする人々は増えてきた。徘徊師は、俳諧修行のためだけではなく、暮らしを立てるため、各地を俳諧指導して廻った。その巡遊遍歴は、多数の俳諧愛好者たちが、各地に居たことで支えられている。中央のみならず地方に於いても、力を付けた町人層による新たな民衆文化が育っていた。俳諧文化は、そのような中で花開いていった。
 西行芭蕉の漂泊を真似、吟行する歌の結社が、以後、次々と登場した来た。町人たちは歌詠の旅先で、名所旧跡に身を置き、風流風雅の価値を感得していった。観光地の発達と物見遊山する新しい大衆の文化が、この町人たちの交流の中から生じてきた。これは消費を謳歌するレジャー産業の、現代における隆盛にも繋がってくる。そのような一大潮流を為す大衆文化の展開が、農漁村を含む一般庶民階層に展開してくる。そのような歌文化を語る前に、今一度、歌の原点をなす韻律の流れを、古代そして中世社会から辿って見ることにする。