山陰沖の歌の語り(55)

第7章、歌の分化

 第1節、演劇空間の創出

 貞和五年(1349)京の四条河原で橋勧進の田楽が演じられた。祇園社への参拝路、四条大橋の修造のためである。勧進聖、田楽法師たちが造った桟敷は、満ち溢れた群衆によって倒壊し、多くの死傷者を出した。太平記の記すところである。その評判の田楽とは、次の如きものであった。

  中門口で打ち鳴らす曲を鼓が響かせ、音頭取りの笛が高く吹かれた。東の楽屋から 
  は匂い薫蘭を凝らし、装い紅粉を尽くしたる美麗の童が二人、一様に金襴の水干を
  着し現れた。そして西の楽屋からは白く清らかなる法師八人が煌めき渡る姿で出現
  した。それは薄化粧の鉄漿黒(かねぐろ)にて、色々の花鳥を織り尽くし染め狂わ
   せた水干に、あやい笠を傾けた装いである。霊妙な奇術、炎のような舞、煌びやか
  な群舞、優雅な楽が演じられ、観客は熱狂と陶酔とに浸っていた。

 この競演が終わると、日吉山王権現のあらたかな霊験を示す猿楽が演じられ、その奇瑞物語は、いよいよ観客を魅了し感嘆へと誘っていた。
 田楽とは、もともとは田遊びで、各地に噺田、舞田、鼓田などの名称が残るように、田植えの折、その豊穣を祈っての芸能である。田楽の法師は、簑笠の姿で、手には編木(びんざさら)を持って擦り鳴らし、早乙女は顔を塗り隠して神事の所作舞を舞い踊った。煌びやかな衣装をまとった呪師や俳優(わざおぎ)が、祈り祝い、柏手(かしわで)を打ち、大地を踏みしめ、踏歌をうたい、土地霊に喜びを与えていた。
 このような歌舞音曲は、衆の興を呼び、次々と諸国へ広く伝播する。田畑の実り、豊穣を謝する蓮華舞、神楽舞などと共に、いよいよ各地へ運ばれていく。この田楽法師たちとは、かつての律令国家で祈祷礼楽を司っていた禅師、菩薩、優婆塞、沙弥、持経者などの変容である。その後の、聖、聖人、上人などと崇められていたものたちの、時代を経ての姿である。国家的庇護から外れた彼らは、その祈祷礼楽の役柄から、河原乞食にも紛う「ほかいびと(供物を運ぶ人)」として、折々に芸を披露する芸能者へと身を落としていた。だが、その演ずる空間とは、かつての栄光もかくやとばかり、煌々しく華やかで、大いに観客を魅了する場を展開させていた。

 このような華美華麗な舞楽、宴舞は、時代を経て、かなりの変容を伴ってはいるが、今も隠岐に残っている。それが隠岐の島後における隠岐国分寺「蓮華会舞」であり、隠岐の島前における美田八幡宮「十方拝礼(しゅうはいら)」である。