山陰沖の歌の語り(66)

第7章、歌の分化

 第12節、城下町の歌
 戦国時代、毛利氏と尼子氏との間で、山陰沖の、海の覇権をめぐる争いがあった。これに勝利した毛利氏は、尼子方に付いていた隠岐佐々木氏を滅亡させ、新たな隠岐の支配者となった。山陰を支配する吉川元春は、この地に代官を派遣し、隠岐政治を執り行った。島後の西郷は、港町としての経済的繁栄もさることながら、隠岐政治の中心として、以後いよいよ都市化を進行させていく。そのような折の、城をめぐる唄(隠岐の盆踊唄)を、以下に幾つか示しておく。

        隠岐盆踊唄

   やれ 我が殿よ 城へ招くが 我が殿よ      

   我が殿よ 城の番だやら 城の番所の 我が殿よ  

   殿御の 城番だやら 城の太鼓の 音(ね)の良さよ

   音(ね)のする 城の音のする 聞けば 殿御の 声もする 

 

 だが毛利氏の隠岐支配も、そう長くは続かなかった。関ケ原の合戦は、西軍に属した毛利氏を、防長二国に押し込めてしまったからである。隠岐は以後、天領として、幕府の直接の監視下に置かれていく。
 新たに発足した徳川幕府は、この海上交通の権益を、自らの意のままに管理したかった。それゆえ、その意図する商品流通、経済政策の下に、やがて川村瑞賢による西廻り海運航路の整備がなされていく。
 いよいよ近世の幕開けである。近世の民衆に支持された近世の唄が、やがて展開する。だがその前に、唄の一方の担い手であった宗教者たちについて、彼らが担った唄の展開を、しばし遡って見ていくことにする。近世の唄は、この宗教者たちの唄も、その基盤に置くからである。